今回の例会は、奈良県西南部に位置し、南和地域の中心都市である五條市を、吉野川(紀ノ川)が市の中央を分断するように流れ、金剛山と吉野連山に囲まれた街を訪れました。
JR・和歌山線の運行本数が少ない、交通の便が悪い五條市ですが、144名の参加者を迎え、弘法大師ゆかりの寺院を巡りました。
駅前を9時40分スタートして間もなく国道24号を南へ渡り路地裏に入り、今も清水が湧き出る「さくら井戸」へ、伝説では、弘法大師に水を求められた時、ひとりの老婆がそこからずいぶん離れた吉野川まで行って水を汲み与えた、弘法大師はその行為をねぎらい、錫杖で地面を掘ったところ、清水がこんこんと湧き出したと伝えられていて、屋根に覆われた細長い井戸の片隅には、お地蔵さんが祀られていて、又、澄んだ水の中には錦鯉も泳いでいて、地元の方々に今も大事に守られている様でした。
「さくら井戸」から狭い路地を抜け、再び国道24号を北に渡り、国道沿いの「櫻井寺」へ、この寺は浄土宗の寺院で、門前には「天誅組本陣跡」の石碑が建ち、天誅組が文久3年(1863年)8月五條代官所を襲撃し本陣を置き五條仮政府と称した。
境内には、さらし首となった代官・鈴木源内ら5人の首を洗ったとされる石造りの「手水鉢」が残っていました。
スタッフによる、天誅組の解説に暫し耳を傾け、「櫻井寺」を後にして五條市役所・史跡公園を経て、コンクリート造りの美しいアーチ型が連続する高い橋脚が残る「五新鉄道跡(五條から新宮まで結ぶ計画で、工事は昭和12年(1937年)に開始されたが、太平洋戦争や物資不足等の理由や戦後の経済や社会情勢の変化で中止となった幻の鉄道)」へ、国道24号からその橋脚沿いを進み、「重要伝統的建造物群保存地区」の「五條新町通り」に入り、江戸時代の商家をはじめとする古い町家や民家が並ぶ街区を進み吉野川に架かる「大川橋」北詰に到着、ここで列詰とトイレ休憩を取りました。
長い「大川橋」を渡り、閑散とした野原西の商店街を抜け「五條病院」前から市街地を後にして国道168号から一般道路に入り、緩やかな上りの道を進み霊安寺町の高台の森の中に鎮座する、宇智郡(現五條市全域)に分布する御霊神社の本宮である「御霊(ごりょう)神社:ご祭神は、光仁天皇の皇后の井上内親王(いのえないしんのう)」に参拝の後、丹生川を越えて長閑な田園風景が広がる丹原町地区を進み「吉祥寺(きっしょうじ)」の参道入口へ、上りの緩やかな約200mの参道を進み、木々に囲まれた高台に位置する「吉祥寺」に11時30分頃到着、境内をお借りして昼食休憩を摂りました。
この「吉祥寺」は、弘法大師空海が高野山を開くにあたり高野山を守護するために周囲七里を結界とし、高野山の東北、丑寅の方角に毘沙門天を安置するためにこの地を訪れたところ、空海の前に生身の毘沙門天が現れ、伽藍を建立するよう告げました。そこで空海は毘沙門天の像を彫り、それを祀ったのが当寺である「吉祥寺」の始まりと伝えられています。
広い境内の陽だまりの中で昼食の後、12時10分「吉祥寺」を後にして、元来た参道を下り、暫く山間の道を南に進み、途中急な坂道を北方面へ上り進むと、視界が大きく開け、標高の高い場所に位置し、前方には金剛山等の山並みを望むのどかな田園風景が広がる大野町地区に出て、のんびりと歩みを進め「井上内親王宇智陵(うちのみささぎ)」へ、井上内親王は聖武天皇の皇女で、光仁天皇の后となるが、天皇を呪ったとして皇后の座を追われ、幽閉先で崩御した。
「宇智陵」を後にして、更に、前方の金剛山や四囲の山々を望み、台地のようになった広々とした長閑な田園地帯を北方面へ進み、県道55号から黒駒(くろま)町地区から、吉野川に架かる「御蔵橋」を渡り犬飼地区に入り、暫く進んで国道24号に面した「犬飼山転法輪寺」に到着。
伝承によりますと、弘法大師空海は815年、都を離れ修行の旅に出て、この地辺りで道に迷っていると「南山の犬飼」と名乗る狩人に会い、その狩人から借りた2匹の犬の導により高野山にたどり着いたという。後に空海は、狩人と出会った場所に「転法輪寺」を創建したと伝わります。
当寺は弘法大師像を本尊として祀り、又、境内には「狩場(かりば)明神社・丹生都比売(にゅうひつめ)明神社」が祀られ、手前には、白黒2匹の犬の像が置かれ、2匹の犬の間には犬の足跡がついていると言われている霊石がありました。
山門(鐘楼堂を兼ねた造り)には紐が垂れていて、これを引くと鐘が鳴り響き、参加者も楽しそうに、紐を引いて鐘を撞いていました。
山門から階段を降り国道24号を横断、即、JR・和歌山線の高架下を進み、緩やかな坂道を上り進み二見地区の高台に位置する狭い道を、右に遠く吉野連山を眺望しながら進み「寄足山生蓮寺(よらせざんしょうれんじ)」に到着。
この寺は、嵯峨天皇が皇后の懐妊にあたり、安産祈願と報謝のために、参議の小野篁(おののたかむら)に命じて地蔵菩薩像を安置したのが始まりとされています。
高野山開創前に当寺に立ち寄った弘法大師空海は、1尺8寸(約55p)の小さな地蔵を彫り、本尊の胎内に安置したと伝えられています。その因縁から「よらせ」と称されるようになり、山号が「寄足山」になりました。
境内には、寺号のとおり、多くの蓮鉢が置かれていて、7月には美しい蓮の花が咲き誇るようです、機会があれば訪れて下さい。
寺を後にして、暫く進んでゴールのJR・二見駅に予定時刻より早い13時40分頃到着しました。
参加者の皆様は、1時間に1本運行の14時過ぎの車両に乗車し、五條の地を後にしました、お疲れ様でした。